クロストーク「上橋菜穂子×高林純示」レポートvol.1 “アイシャ”の正体
塩尻班
クロストーク「上橋菜穂子×高林純示」レポートvol.1 “アイシャ”の正体
2024年12月23日
横浜市立大学 みなとみらいサテライトキャンパス
塩尻 かおり
2024年11月23日。横浜市立大学みなとみらいキャンパスで、作家の上橋菜穂子さん、化学生態学を専門とする農学者の高林純示さんによるクロストークイベントが開催されました。客席では全国から招かれた11名の高校生が、熱心に耳を傾け、積極的に質問をする姿が見られました。
概要はこちら:https://www.plant-climate-feedback.com/symposium/「香君」著者-上橋菜穂子先生と、京都大学-高林純示名誉教授-をお迎えしてクロストークイベントを開催
まずは、この夢のような対談がどのように実現したのか、お二人のプロフィールと共に経緯をご紹介します。
上橋 菜穂子(うえはし・なほこ)1962年東京生まれ。文学博士。川村学園女子大学特任教授。1989年『精霊の木』で作家デビュー。著書に『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズ、『獣の奏者』『鹿の王』『香君』など。野間児童文芸賞、本屋大賞、日本医療小説大賞など数多くの賞に輝き、2014年には国際アンデルセン賞作家賞を受賞。2020年、マイケル・L・プリンツ賞オナー、日本文化人類学会賞、2024年、菊池寛賞を受賞。医学博士・津田篤太郎との共著『ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話』もある。
高林 純示(たかばやし・じゅんじ)1956年神戸市生まれ。京都大学名誉教授。農学博士。1987年京都大学農学部付属農薬研究施設助手、オランダ農科大学ワーゲニンゲン研究員、京都大学農学研究科准教授、京都大学生態学研究センター教授、同センターセンター長を務めた。2000年、日本応用動物昆虫学会賞、2022年、日本生態学会賞、2023年、日本農学賞を受賞。著書に『寄生蜂をめぐる三角関係』(共著、講談社)、『共進化の謎に迫る』(共著、平凡社)、『植物が未来を拓く』(共著、共立出版)、『生物多様性科学のすすめ』(共著、丸善)、『プラントミメティックス』(編集委員・共著、NTS)、『虫と草木のネットワーク』(東方出版)等。
<人と植物の関係を考えるうちに、植物と虫の共進化などが気になり、共進化に関する本や生物間ネットワークに関する本などを読み始めました。その中で出会ったのが、高林純示著『虫と草木のネットワーク』で、この本が、また驚異的な面白さだったのです>
『香君』の長い旅路 より
これは上橋さんが2022年刊行された『香君』のあとがきより抜粋した一文です。そう、まさに高林さんは『香君』の誕生に関わる重要人物のお一人。高林さんは“におい”などの化学物質を介した植物や虫たちのコミュニケーションに関する研究に長年、従事されています。そして、本イベントを企画した学術変革領域研究(A)「植物気候フィードバック」の領域アドバイザーです。
高林さんを「監督のような存在」、そして上橋さんの『香君』は「私たちのバイブル」と語るのは、領域代表を務める九州大学の佐竹暁子さんです。では、佐竹さん率いる「植物気候フィードバック」とは、どのような研究プロジェクトなのでしょうか。
植物は気候を変える
「私たちのプロジェクトは、植物のコミュニケーションや、環境応答性などの研究を進め、生態系と地球環境の未来を予測することを目指して発足しました。領域としては5年間のプロジェクトで、現在1年半が経過したところです」
「日本には四季があり、季節の移ろいを感じられます。それは地球の地軸が傾いた状態で太陽の周りを回っているから。それによって日の長さや気温が1年周期で変化し、春夏秋冬が生まれます。そして、冬になると休眠や冬眠をして、春になると花が咲くように、動植物も季節の変化に応答しています。こうした生物の季節活動を「フェノロジー」と呼びます。
フェノロジーは温度の変化にとても敏感です。現在、急速な温暖化が起きているのは皆さんもご存知の通りですが、このまま温暖化が進むと、21世紀末には5℃近く温度が上昇する可能性 があると予測されています」
佐竹 暁子(さたけ・あきこ)学術変革領域研究(A)「植物気候フィードバック」領域代表。九州大学大学院 理学研究院生物科学部門教授。博士(理学)。季節応答をつくりだす概日時計の役割などを、野外実験、分子生物学的実験、数学的手法を合わせた総合的アプローチによって研究している。
「温暖化が進むと、地球上の生物はどうなってしまうのか。生物はどう応答するのか──。この疑問に対し、これまで様々な研究が進められてきました。植物においては、芽吹きや開花が早まり、落葉が遅くなる、つまり春が早く訪れ、秋は遅くなり、葉の茂る期間が長くなることが多くの観測データから分かってきています。それでも、温暖化にどこまで生物は対応できるのか、何℃までなら耐えられるのか、といった順応限界について、まだ明確な答えが出ていません。それが、我々が研究する理由の一つです」
「一方で、植物は気候の影響を受けるだけでなく、植物も気候に影響を及ぼしています。光合成もその一つです。そして植物が出すにおい物質、これも生物間のコミュニケーションに使われるだけでなく、その一部が雲の核となって地球を冷却する効果を持つことが分かっています(核となる物質に水蒸気が凝結して雲の粒ができる)。この“におい物質”を生物由来揮発性有機化合物(BVOCs: biogenic volatile organic compounds)といいます。つまり、気候と植物の間には双方向のフィードバックがあるだろうと。これを明らかにしようと、我々はチームで研究を進めています」
「例えば、日本、中国、マレーシアの森に行って、縦断的にモニタリングをしています。日本の白神山地の観測では“アイシャ”が大活躍しました。100以上のにおい物質、BVOCsをリアルタイムで観 測し、新しいデータがたくさん取れました。数学モデルを使ってそれを解析することで、気候へのフィードバックがどのようなものであるか、検討を進めています」
なんと佐竹さんのお話に、香りで万象を知る『香君』の主人公・アイシャの名前が。実は、『香君』にちなんで名づけられた装置の愛称だったのです。ということで、実際に“アイシャ”を相棒に研究を進める横浜市立大学 関本奏子さんによる実演が行われました。
関本 奏子(せきもと・かなこ)横浜市立大学大学院 生命ナノシステム科学研究科准教授。博士(理学)。専門は質量分析学、大気化学。2021年より科学技術振興機構さきがけ「植物分子の機能と制御」研究員として植物分子科学の分野でも活躍。
いよいよ “アイシャ”が登場
「こちらが白神山地で実際に活躍した“アイシャ”です。そして“アイシャ”が感じ取ったものを、化学の言葉に訳すのが、私の仕事です」
そう話しながら、関本さんが会場の高校生に配ったのは、ローズマリーの葉。
「皆さんは、鼻から空気を吸って、においを嗅いでいますよね。空気を吸いながら『いま窒素を吸ったな、酸素だな、お、これは空気の成分ではないな…』と一つ一つ感じ取ってはいませんが、空気中のごくごく微量な物質も、分子のレベルで嗅ぎ分けています」
ローズマリーに含まれる化合物の分子模型
「いま、皆さんが嗅いでいるローズマリーの代表的な成分としては、シネオール、ボルネオール、カンファーといった物質が挙げられます。このうち、シネオールとボルネオールの化学式は、どちらもC10H18O 。同じ元素組成で、原子の種類と数は一緒です。でも、原子と原子のつながり方のパターンが違う。つまり、分子構造が変わると、それぞれの分子が示す性質や機能、においの感じ方も違うものになります。“アイシャ”はこのような様々な物質を検出してくれるのです」
“アイシャ”こと、大気中のにおい物質の計測が得意な質量分析計
「私たちが“アイシャ”と呼ぶこの装置、正式には質量分析計の一種で、プロトン移動反応質量分析法(PTR-MS: proton transfer reaction mass spectrometry)という手法で計測しています。一般に、質量分析で分子1個あたりの質量を調べるには、その分子を気体かつイオンの状 態にする必要があります。植物が放出するBVOCsはそもそもガスなので、あとはイオン化ですが、PTR-MSは大気の主成分である窒素や酸素はイオン化せず、BVOCsだけをイオン化することができます。そのため、植物が放出するBVOCsを高精度で計測できるのです。BVOCsを含め、大気中の揮発性有機化合物は、窒素や酸素の10億~1兆分の1オーダーと、埋もれそうなほどの低濃度で存在していますが“アイシャ”はそれらを嗅ぎ分けることができるのです」
ローズマリーに続き、とある野生種のトマトの葉を計測する様子。このトマトに含まれる「ウンデカノン」「トリデカノン」という成分は、人間にとっては良い香りだが、アブラムシなどには殺虫効果があることが知られている。
「上橋さんの『香君』の主人公・アイシャは、鼻で植物の香りを鮮明に感じ取りますが、私たちの相棒である“アイシャ”は、分子をイオン化することで電気信号としてキャッチします。そして私たち研究者は、それを化学の情報に変換しています。例えば、いま来た電気信号は、炭素や水素、酸素が何個ずつ入った分子なのかという情報を示していて、 他の分析方法も使いながら、総合的に化合物を解析していきます。今後も“アイシャ”を森に持って行って、昼と夜でのBVOCsの種類や濃度がどう変化するのか、日射や気温の影響について、さらに詳しく調べていきたいと思っています」
関本さんのお話からは、植物がどんな化学物質を出しているのか教えてくれるPTR-MSの装置が、『香君』といかにシンクロしているのか、“アイシャ”への情熱や愛情と共に伝わってきました。次回のレポートでは、上橋さんと高林さんの対談内容を深掘りしていきます。お楽しみに!